【レビュー】『心が叫びたがってるんだ。』をさらに面白く見る!「玉子様」を中心に読み解けば……?

kokosake公式ホームページより)

 「お前のお喋りのせいでこうなったんだ」。父親の言葉をキッカケに喋れなくなってしまった少女成瀬順に、本音を言わない坂上拓実、リアリーダー部の優等生仁藤菜月、そして元野球部エースの田崎大樹の4人を中心に、クラスでミュージカルを上演し成瀬順が喋ることができるまでを切り取った青春群像劇、映画『心が叫びたがってるんだ。』。

『あの花』スタッフが結集してのオリジナル映画で、公開6.5億円突破のヒットを記録した『ここさけ』。新しいアニメ映画の期待の星とも言える本作をライター久保内信行がレビューとともに“『ここさけ』をさらに面白く観るためのポイント”を挙げてみました。

長井龍雪監督の印象的な演出法とは?

長井龍雪、岡田麿里、田中将賀のいわゆる『あの花』スタッフ。筆者にとってこの三人は『とらドラ!』スタッフとしての印象が強く、“泣ける!”という宣伝文句よりも、むしろ“理知的で職人肌”なイメージをもってとらえてきた名前だったりする。

長井龍雪監督は『とある科学の超電磁砲』など深夜ヒットアニメを手掛けてきている。それを筆者が大喜びで観てきた中で、ストーリーに重厚感を持たせる印象的な特徴的な演出があることに気づいた。それは、印象的な小物使いだ。だいたい長井監督作品ではEDにキャラクターと共に配置されて、それぞれのキャラクターの心情や関係性を示す道具として使われている。

『とある科学の超電磁砲』では、それぞれのキャラクターの特徴をとらえた携帯電話。『あの花』なら、マグカップ。場面転換シーンのときにマグカップが固まって置かれたりバラけたり、表面が互い違いに置かれたりしているシーンは覚えている人も多いはず。

『とらドラ』では、その小道具使いがあたかも副ストーリーのように使われ、大河の父親の着ていたスーツを竜児に与え、“擬似的な父親”として亜美がいうところの“家族ごっこ”の象徴にとして描かれ、父親の服を着た竜児の前には現れなかった大河を迎えに行く時には、“ごっこ”のキグルミを着て、父親ごっこから愛を与える者としてのサンタとして描かれる。そこで大河が竜児のキグルミの顔をとり、ごっこ遊びであることを言明する。しかし、父親でもサンタでもない生身の竜児を確認したことで大河は自身の恋を自覚することになる。

“泣ける”という言葉は嫌いだけど、言ってしまえばその“泣ける”エモーションを観客に与えるために周到な小物使いと、それを利用したストーリーテリングを行うのが長井監督の得意技で、筆者が理知的で職人肌だなあと感じる理由だったりする。そして、若手監督のなかで筆者が長井龍雪監督を特に凄いと感じるポイントでもある。

王子様と玉子様と、『ハンプティ・ダンプティ』

『ここさけ』を見る前は、クレヨンタッチのタイトルに「え、ジブリっぽくない?」、乃木坂46をフィーチャーした楽曲と宣伝方式に「“泣ける邦画”だコレ! 私そういうの困るわ!」と好きな監督なだけに、そして、“なんちゃってジブリで“泣ける感じ”で!” という発注もらくらくこなしそうな長井監督だけに、宣伝を見るたびに不安に駆られていたのは事実。そして公開後、「カップルだけしかいなかったらきっと俺映画館の中で冷たくなって死ぬんだ」と変な方向に悲壮な覚悟をして鑑賞しました。器用でクレバーな長井監督を好きだからゆえの不安を胸に抱えて。

そして鑑賞後。そこには猛烈に懺悔の言葉を口にしながら、「これは吉田秋生の『櫻の園』レベルの傑作ですよ! 10年後20年後にリメイクされるのは間違いない!」と強烈に手のひら返しをかましつつ「長井監督を信じてよかった!」と、どの口がいうのかという感想をうわ言のように繰り返す男が一人できあがりました。僕です。

それは、『ここさけ』で描かれた廃墟になったラブホテルや、国道沿いのロードサイド、そして成瀬順たちの織りなす青春群像が心に刺さったのはもちろんだけど、前段で言った長井監督っぽさが炸裂した小物使いの妙が今までにないほどの達成を見せていたからだ。とくに鑑賞中に「おお!」と思ったポイントを挙げてみることにしよう。

玉子のイメージの活用

玉子といえば成瀬順が子供の頃に“喋れなくなる呪い”をかけた玉子様。これは、本作の中で一番ファンタジックな部分を担う導入だけど、ただたんに王子様との語呂で玉子様が選ばれたわけじゃない。呪いをかける玉子様の姿は、イギリス民謡『マザーグース』で有名なハンプティ・ダンプティそのものの姿。そしてハンプティダンプティといえば、

Humpty Dumpty sat on a wall,

Humpty Dumpty had a great fall.

All the king’s horses,

And all the king’s men,

Couldn’t put Humpty together again.

という「塀の上から落っこちたハンプティダンプティが割れてしまい、王様や家来がみんなでよっても直せなかった」という唄が有名だ。英国版『覆水盆に返らず』の意味をもつこの寓話は、『ここさけ』の中にも、この一度台無しになったものはもう誰にも元に戻せないというキャラクターの持つ諦観として満ちている。主要キャラクターの全員が「過去にやらかして、その結果を取り返すことができない」ことを胸に刻んでいる人間たちだ。物語の主要人物全員が“割れてしまったハンプティ・ダンプティ”だという自己イメージを持っている。

それと同時に、言葉を喋るとお腹が痛くなるという成瀬順に象徴的なように、自分の殻を破ろうとすると心理的な抵抗をうけてしまう姿もある。ここでは、自分の卵の殻を破れずにもがく青春=ヒナであるという、まだ生まれていない玉子としての登場人物も描かれている。

この、すでに失われたあるべき自己像と、いまだできあがっていない自我との2つの意味を“卵”のイメージに重ねあわせながらストーリーは進行していく。

さらに卵のイメージは、自己の内面を表す小道具として使われるだけではない。クラスの前で声を上げてしまいトイレに篭った順、町内会費の催促に応対に出るなという言いつけを破ってドアから恐る恐る顔を出した順、など、場所の閉鎖性を卵の殻として使いキャラクターは自らそこにこもり、時には恐る恐る顔を出そうとして裏切られる。映画の前半では、特定のシチュエーションから“出る”シーンは極端に少なく描かれ、描かれる場合も殻の外にあたる外部からの視点で顔を恐る恐る出すという見せ方になっているはずだ。

それが、物語後半になると、自分から殻を割るという決意のもと行動を始める。卵のような坊主頭が印象的な野球部の元エース、田崎大樹がこれまでの行動を詫びるために野球部に行って頭を下げるシーン。これがストーリー上はそれまで言葉では深くは掘り下げていなかったキャラクターなのにもかかわらず違和感なく受け入れられるのは、無意識にでも長井監督が積み上げてきた卵を意識した演出に反応しているおかげのように思える。

田崎大樹が雨の中野球部の外から内部へ深く頭を下げる時、持っていたビニール傘は打ち捨てられて逆を向いて地面に置かれ、そこに雨が溜まっている。これは、“覆水盆に返らず”に囚われていたキャラクターが自分を覆っていた殻を脱ぎ捨て、さらにその殻でこぼれてしまっていた水をすくい取ることができた……そんなふうに観ることもできるわけだ。

逆に成瀬順は、その自分を押し込める卵の殻をとったとき、中身はもしかして孵っていないかもしれない、ダメな内面が溢れだすだけかもしれないと恐怖し、真っ黄色い卵の海にイメージ上で身投げしてしまうことになる。

卵のイメージから、さまざまな見立てをつくり各シーンに当てはめることで言葉で説明する以上の二重三重の意味を匂わせる手腕には本当に脱帽の一言だった。

あ、ほかにもテレビシリーズの監督作品でも使われそうな小物使いはたくさんありましたね。たとえば、生徒のカバン。最初は部屋のアチラコチラに散乱して置かれていたものが、一つの目標に向かって動き始めたら、一つの場所におかれはじめ、成瀬順が拓実たちの恋の話を聞いてしまい絶望し逃走するときには自身の持っていたみんなのカバンを放り出してしまう、とか。作中で見てまだなんとなく覚えている小物を中心に見返すと、それぞれの小物にもストーリーに見合ったドラマが設定されているかもしれません。拓実のおじいちゃんにすぐに譲り渡そうとした自転車、とか。

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