五代さんっ……! NHK朝ドラで話題の「五代友厚」が大阪に残した偉大すぎる功績とは?

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NHK連続テレビ小説『あさが来た』でディーン・フジオカさん演じる五代友厚。残念ながらドラマの中では本日亡くなってしまいました。“五代ロス”に打ちひしがれている視聴者も多いのではないでしょうか。

実在の人物である五代は、ドラマの中でも「五代友厚(才助)」として登場。波留さん演じる主人公・あさに恋心を抱くひとりの男として、また女性実業家の道を突き進むあさの師として、さらには玉木宏演じるあさの夫・進次郎のよき友として、「あさが来た」のキーパーソンとなっています。

ドラマを見て五代ファン(ディーン・フジオカファン?)になったとしても、実際の五代友厚のことを知っている人はそう多くないのでは? いったい五代友厚とはどういう人物だったのでしょうか。

優秀な少年時代 〜 長崎遊学で人脈を築き、海外渡航への足掛かりを得る

五代友厚は、天保6(1836)年に薩摩藩の藩士の家に生まれました。

幼い頃から頭脳明晰で、当時薩摩藩を動かしていた開明派の主君・島津斉彬(なりあきら)にその才能を喜ばれて、「才助」という名前を命名されたともいわれています。

21歳の頃には、薩摩藩から選抜されて、エリートばかりが集まる江戸幕府の士官養成所・長崎海軍伝習所の伝習生となります。長崎海軍伝習所では、勝海舟や榎本武揚などとともに、オランダ士官から西洋の軍術や最先端の学問を学んでいます。

また、長崎の地で五代は、イギリス商人トーマス・グラバーとも知り合います。長崎の有名な観光地・グラバー邸で知られるあのグラバーです。その後、グラバーの仲介で上海への密航を経験。薩摩藩の代表としてイギリスにも渡航し、工業機械や技師を購入・手配して薩摩藩の近代化・工業化に一役買います。

ドラマの中でたびたび口にしていた五代さんの英語は、この時期に身につけたと考えられます。

五代が残した大阪での功績 近代大阪経済の父となる

明治維新後は、薩摩藩での活躍から明治新政府の官吏として取り立てられ、大阪に赴任。しかし、明治2(1869)年には官職を辞して大阪の地で実業界へと歩みを進めます。

実業家となった五代は翌(1870)年、官吏時代から構想していた造幣寮(現在の大阪造幣局)の設立を実現し、国際的に通用する通貨制度を整えると、鉱山経営にも着手し、たちまち鉱山王に。「弘成館」と呼ばれた鉱山事業は、大阪だけでなく、東京・築地にも支社を置くほど隆盛を極めたものでした。『あさが来た』に登場した五代さんの築地のお屋敷は、この会社のことだと思われます。

また、『あさが来た』の中では、近藤正臣演じる加野屋の正吉や、宮崎あおい演じるはつの嫁ぎ先・山王寺屋が、幕府や旧藩への貸付金で苦しんでいましたが、実際の大阪経済もドラマ同様明治維新の混乱で疲弊していました。この大阪経済を再生すべく、五代は財界の指導者たちに働きかけ、明治11(1878)年に「大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)」を設立します。設立の動機は商取引で国際的な信頼を得るため。先進諸国では商業界でこうした会議所があるのは当たり前のことでした。

こうして大阪商法会議所が設立されると、五代は初代会頭に就任。五代亡き後は公的機関として改組され、その役割を果たすようになります。

他にも「大阪株式取引所(現・大阪取引所)」「大阪商業講習所(現・大阪市立大学)」などの設立にも尽力。明治15(1882)年には、広岡浅子の夫・信五郎が大阪株式取引所の理事に就任しています。

晩年まで衰えることがなかった事業展開への意欲

五代が亡くなったのは明治18(1885)年9月のこと。49歳という若さでした。

長く続いた多忙と不摂生な生活によって糖尿病からくる高血圧性心臓疾患を発症。禁酒禁煙を言い渡されていたといいます。以降、酒は控えたものの、大阪の中之島に邸宅が完成して1年も経たないうちに病状が悪化。東京・築地の別邸で療養生活を送り、息を引き取りました。

大阪商人から慕われていた五代。遺言に従って大阪で執り行われた葬式には、4,000人もの弔問客が訪れといいます。

死の直前まで五代の事業意欲は衰えることはなく、明治17(1884)年に開業した「大阪商船(現・商船三井)」や、五代の死後の明治18(1885)年12月に開業した「阪堺鉄道(現・南海電気軌道)」などの設立にも、五代が大きく関わっています。

五代さんのこと、もっと知りたい!

[内容]NHK連続テレビ小説『あさが来た』のもうひとりの主人公ともいえる五代友厚。そんな五代友厚の生涯に、『あさが来た』に登場する時代背景や人物たちの真の姿を解説しつつ迫る! 五代友厚役のディーン・フジオカの撮り下ろしインタビューも収録。

<参考リンク>
NHK総合|朝の連続テレビ小説『あさが来た』