15歳のコーヒー焙煎士が追い求める「ある瞬間」

15歳にして自前のコーヒー焙煎所「ホライズンラボ」を構える焙煎士、岩野響さん。理想のおいしさを追い求めて焙煎に没頭する日々を送っています。でも、15歳でロースター? どうして? 実は響さん、アスペルガー症候群と診断された方でもあります。“ふつう” ができない自分に葛藤する中、出会ったのが焙煎でした。ホライズンラボは、響さんと家族が “ふつうじゃなさ” を受け入れることで見つけた道だといいます。

そんな響さんと両親の歩みが一冊の本になりました。『コーヒーはぼくの杖 〜 発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』は、響さんのことを、本人、母・久美子さん、父・開人さん、それぞれの視点で語る内容となっています。

ここでは本書の第1章から「15才のコーヒー焙煎士 from 響」を公開します。特設ページでは第1章すべて(「アスペルガーの予兆と診断 from 岩野久美子(母)」「“ふつう” ではない生き方 from 岩野開人(父)」)を無料で公開中です。続けてそちらもぜひご覧ください!

15才のコーヒー焙煎士 from 響|ぼくの居場所・焙煎室

焙煎室。時にはここで寝食を忘れて焙煎に没頭する。

朝8時、ぼくは焙煎室に向かう。だいたい夜の8時、長いときは10時過ぎまで、ストーブも冷房もないこの小屋で毎日を過ごしている。ここは前の住人が茶室として使っていた場所だ。父とふたりで改装して、焙煎室にした。

いまは、5キロの豆を焼ける焙煎機をメインに、1キロの焙煎機2台と合わせて3台を仕事で使っている。どちらも電気で回転する半熱風式だが、ホライズンラボをはじめた頃は500グラムの手回し焙煎機1台だけを使っていた。

手回しの焙煎は冷却も含め、1回に50分ほどかかる作業で、しかも毎回うまく行くわけではない。残念ながら廃棄になってしまうこともあるから、一日じゅう、遅いときは夜中の2時まで、休みなしで焼いても5キロを焼くのがせいいっぱいだった。

電気式の焙煎機が入り、以前よりも大量にムラなく焼けるようになったけれど、火力や回転をすべてコントロールして、自分の味を追求できる自由さは手回し焙煎機にしかない感覚だ。だからいまでも、初めての豆を焼くときや、新しい味を作りたいときは、手回しの方を使っている。今までで最高の出来だった焙煎も、手回し焙煎機から生まれた。

ぼくは生まれつき、味覚や嗅覚が他の人より鋭いらしい。

幼い頃からスパイスのような、変わった匂いや鋭い味のする食品に惹かれる傾向があったのだが、とりわけコーヒーの味と香りが好きで、両親に隠れてこっそり飲むことがあった。中学1年で学校に行くことを辞め、その後2年間は家業を手伝っていたのだが、幸か不幸か、唯一と言っていいくらい自信を持ってできるようになった仕事が、両親にコーヒーを淹れることとコーヒーの焙煎だけだったのは、この過敏な感覚のせいもあると思う。

父の仕事を手伝う

ぼくの家は、父が染色、母がデザイン・パターンという分業で、「リップル洋品店」という洋服店を営んでいる。学校を辞めたとき、父は「染色ならできるかもしれないよ」と言い、悪くないな、と思ったので、父に「染色をやらせてほしい」と頼んだ。父を信頼していたこともあったが、なにより家で〝することがない〟状態にとても耐えられそうになかったからだ。

さっきも書いたように、結局2年やった染色の作業じたいは、ほとんど身に付くことがなかった。いいわけに聞こえてしまうかもしれないが、ぼくは興味を持てないことへの集中力が極端に低い。だから、たとえば決まった量の水をバケツに汲むというもっとも単純な作業ですら2年間、満足にできるようにはならなかった。父が「次は何するんだっけ?」と聞いてくれれば、(あっ、水を汲むんだった)と思い出すことはできる。でも、水の量にまで注意を向けることはできず、いつも適当な量になってしまうのだった。

でも、染色の2年間があったからこそ、ぼくはコーヒーの焙煎に出会うことができたのだと確信している。

染色を手伝う。ホライズンラボがオープンする前日まで二人の作業は続いた。

やってみて初めてわかったことだが、染色はほんとうに地味で単純な作業の繰り返しで、しかもそれすら満足にできないぼくにとっては〝しゃべってないと間が持たない〟くらい辛かった。だからぼくは父に毎日いろいろなことを話しかけたし、父もあんがい、気を紛らわせる相方ができたことを喜んでいるように感じた。

話す内容は取るに足らない、たとえば「目玉焼きには醤油をかける方がいいか、塩コショウがいいか」などのくだらないことがほとんどだったけれど、そういった会話の中で、ぼくは自分に少しずつ「居場所」ができているのを感じていた。なにより大事に思えたのは、毎食後に淹れるコーヒーで、両親から心よりの称賛をもらえることだった。

焙煎機との出会い

ぼくの両親、とくに父親はコーヒーがすごく好きで、仕事の合間にコーヒーを淹れるのをぼくに任せてくれていた。染色を始めたばかりのころはまだ自家焙煎ではなく、あらかじめ焼いてある豆を買い、手動のミルで挽くぐらいのことしかしていなかったのだが、父は当時エスプレッソに執心していて、わりと本格的な、手で圧力をかけるタイプのエスプレッソマシーンを持っていた。

ぼく自身もコーヒーが好きだったので、エスプレッソの抽出はかなり研究したし、相当のこだわりを持っていた。染色では足を引っ張ることが多いぼくと父の会話がコーヒーに偏ってくるのも当然のことで、父がときおり投げかけてくるコーヒーの質問に答えるため、ネットや図書館で調べたりもしていた。

初めて焙煎機を手に入れたのは、学校を辞める少し前のことだ。母が懇意にしている雑貨店の女主人が、「そんなにコーヒーが好きなら焙煎もやってみたら?」と、簡単な焙煎機をくれた。

しばらくは使わないまま放っておいたのだが、染色のあいまの「ねえ、焙煎機使わないの?」などといった、父のやや挑発的な投げかけに応じているうちに、使ってみたい気持ちが出てきた。染色の作業を通してチャッカマンとコンロを使えるようになっていたことも大きいが、ぼくが尻込みして「なま豆がない」などと逃げる口実を作るたび、すぐに、どこからか自分の好きな豆を調達してくる父の行動力も、ぼくを駆り立てたように思う。

毎日、仕事が終わった夜に、染色の作業場を借りて焙煎の練習を始めた。そのころ使っていたのは、いま持っている手回し焙煎機よりずっと小さい、言ってしまえばおもちゃのような代物だったが、それでも楽しかった。父に頼んで何度も生豆を取り寄せてもらい、時間を忘れて焼き続けた。

ぼくは、他人になにかを習うということが絶望的に不得意だ。だから、焙煎についても、見よう見まねどころではない、はじめはまったくのデタラメだったと思う。コーヒー焙煎の基礎が書いてある本を図書館で探して調べたりもしたが、最終的には自分の鼻と目だけが頼りだった。

あくる朝、父と母に、まだ焙煎とは名ばかりの焦げた、あるいは生焼けのコーヒーを淹れては、「ひーくん、これは美味しくないよ」と率直な感想をもらうことをえんえんと繰り返したが、くやしかったという以上に、すなおに嬉しかった。いちからものを作ることができたという達成感と、これしかない、という手応えを感じられたこと、それに、家族の役に立てているという満足感があった。

ようやく両親から「うん、美味しいよ」と言ってもらえるようになったのは、焙煎をはじめて1年が経過した頃のことだったと思う。

憧れのレジェンド焙煎士

ぼくの焙煎が両親の知人たちに少しずつ知られはじめた頃、母とともに二人展を開催した陶芸家の方が、1冊の本をくれた。その本は、何人かの焙煎士が自分の焙煎スタイルや人生をインタビュー形式で語るというものだったが、そのひとりに大坊勝次さんがいた。

38年のあいだ、手回し焙煎機だけで喫茶店「大坊珈琲店」を営んだ大坊さんの語る内容は、ハイテクロースターを使いこなす焙煎士たちの専門的な説明に比べ、直感で理解できることが多かった。とくに、大坊さんが語る「7.0」という焙煎のポイントは、それをまだ言葉にはできていなかったけれど、焙煎がうまくいったときのあの感覚と近いんじゃないか、と思った。そして、コーヒーの焙煎にはまだまだ奥があるということを知った。

ちょうど、毎日酷使していた初代の焙煎機が壊れたのを機に、ぼくは大坊さんのトレードマークでもある富士珈機の手回し焙煎機を、地元のコーヒー機材店から5万円で購入した。染色でもらっていた月給の1万円をほとんど使わずに貯めていたので、費用は自分でまかなうことができたのだ。これが、ぼくがいまも使っている手回しの焙煎機だ。

富士の手回し焙煎機はとうぜん、13才(ぼくは早生まれだ)に合うようには作られていない。武骨で重厚で、どこか近寄りがたいような気難しさがある。あるカメラマンが「良いカメラは写真家を育てる」と言うのを聞いたことがあるが、この焙煎機に出会い、その言葉の意味が理解できた。

富士珈機の手回し焙煎機。思っている以上のスピードで何十分も回し続けるので、夏などはかなり重労働になる。

手回し焙煎機で調節できるのは、火の強さと回転のスピードだけだ。回転は遅くても速くても良くない。釜の中をイメージして、豆が宙を浮いているような、豆がもっとも〝心地よい〟と感じる火力と、回転のスピードをたもつ。

煙の匂いが発酵臭から茄子の匂いに変わると、パチパチと派手な音を響かせて1ハゼ目が始まる。さらに煙が立ち込め、ややおとなしい2ハゼ目が始まれば、スプーンをこまめに差し込んで微妙な色の変化を見分ける。まだまだかな、と思っているあいだに焙煎は一気に進んでしまう。

深煎りに魅せられる理由

焙煎について言うなら、ぼくは深煎りのコーヒーが好きだ。「深煎り」と聞くと、多くの人は「苦くて焦げくさい感じ」を思い浮かべるにちがいない。ぼくもはじめはそう思っていた。

だけど、焙煎を繰り返すうちに、酸味が消えて苦みが出始める瞬間の「交じり合う一点」が存在することに気がついた。焙煎をそこでぴたりと止めることができたとき、酸味が消え、霞んだような丸い甘みが出る。2ハゼを終えた少しあとのほんの一瞬だけ訪れるそのタイミングは、季節や豆の種類、状態によっても変わる。

さらに、これは持論になってしまうけれど、コーヒーの味の大部分は焙煎で決まるものだと考えている。よく豆の産地のことを聞かれるのだが、たしかに豆の育つ環境による個性もあると思う。でも、どんなに〝酸っぱい〟豆を使っても焙煎を深くすれば酸味は消えてしまうし、どんなに〝苦い〟豆でも、浅く煎れば酸味は際立つ。

ぼくの焙煎は、酸味と苦みが「交じり合う一点」を目指している。今のぼくは、その霞んだ丸い美味しさの先にコーヒーの個性をひらめかせることこそが、焙煎という仕事だと考えている。

あの大坊さんに会える!?

両親がぼくの焙煎に口を出さなくなった頃、思いがけない〝事件〟が母の口から告げられた。母の展示会を主催してくれたギャラリーのオーナーが大坊さんと知り合いで、大坊さんにぼくのことを話すと「いちどうちに遊びにいらっしゃい」と仰ったと言うのだ。

ぼくは感情を外に出さない。というかあまり上手く出せない方なのだけれど、その時ばかりは変な声を出してしまったような気がする。

ともあれ、深煎りコーヒーの伝説ともいえる大坊勝次さんのお宅に、両親とぼくは、渾身の焙煎を2種類持ってうかがった。

大坊さんのお宅には、2013年に閉店された「大坊珈琲店」のカウンターがそのまま移設されていた。大坊さんはレコードに針を落とし、みずからぼくの豆を挽いてゆっくりとドリップすると、カップを手に取り、ひとくち飲んで言った。

「攻めたね」

大坊さんは、ぼくのコーヒーをまっすぐに表現してくれた。いまどき、こんな「深い地点」を目指そうとしている若い人がいるのか、と。そして「この『甘み』を感じられるなら、良い線を突いている」とも言ってくれた。

そして大坊さんは、自身の「7.0」のスケールに基づいて、「君はどこを狙っているの?」とぼくに質問した。

ぼくが自分の、そのとき把握できていた「一点」についてしどろもどろで説明をすると、「うん。だとしたらこれはすこし煎りすぎかもしれない。7.2あたりだね。強烈な苦みはあるけど、ただ、甘みもちゃんと残っている」と言った。

その後も夢のような時間は続き、ぼくは大坊さんと、その〝コーヒーそのもの〟を体現しているような存在感に完全に魅了されてしまった。大坊さんは、全身でこう表現されていたように思う。

「コーヒーはひとつじゃない。きみのコーヒーを目指しなさい」

その後、ぼくはさらにコーヒーにのめり込み、「自分の味」を追求することに没頭していった。染色では相変わらず役立たずだったけれど、コーヒーの中でなら自由になれた。コーヒーでなら自分自身を表現できる、そのことが心底うれしかった。

富士の焙煎機がしだいに体になじみ、自在に扱えるようになるのにつれて、ぼくは他の喫茶店の味を知りたくなっていった。別の本を頼りに客として訪れたカフェ・ド・ランブルでは、103才の現役焙煎士である関口さんが焙煎している姿を間近で拝見することができた。供されたオールドコーヒーの深くて、華やかさのある味わいには魂を揺さぶられる気がした。

未知なるネパールの豆

自分が焙煎したコーヒーの味わいを、ぼくは「波」のような形で捉えている。

口に含んだ瞬間に来る波と、それを打ち消すように返ってくる波、そして余韻のように残る酸味のさざなみ。実を言うと、ある時期を境に、ぼくは自分の焙煎を変化させている。

「ある時期」の前、ぼくはコーヒー豆の個性を最大に抽き出すことに専念していた。口に含んだ瞬間に訪れる激しい波こそが、ぼくのコーヒーの主役だと考えていたからだ。変化は、ホライズンラボを開店して3か月ほど経った2017年の7月、ネパールのコーヒー農園を訪れたときに起こった。

ネパールは、コーヒー豆の生産地としてまだ世界的に評価されているとは言い難く、発展の途上にある。洋品店のお客さんにネパールを長年支援している方がいて、産業としてのコーヒー豆栽培を根付かせようと奮闘していた。

でも、当然のことだが、コーヒー豆には焙煎が必要で、豆の評価は焙煎の腕にもかかっている。お客さんはサンプルをぼくに手渡し、「まだまだだとは思うが、可能性を確かめてほしい」と言った。

考えてみれば、未知の豆を手探りで焙煎するのは、いままでぼくがずっとやってきたことだ。それに、まだ海のものとも山のものともつかぬ(まちがいなく海ではないが)豆を焼くという行為になにか、ぼく自身の存在と近いシンパシーのような感情も覚え、心を込めて焙煎をした。

焼きながら予感したとおり、その豆で淹れたコーヒーは丸く、奥行きがあり、ひとことで言えば、すごく美味しかった。父も母も「ひーくん、これ美味しいよ」と絶賛した。サンプルをくれたお客さんも、ひとくち飲むと顔色を変え、あわてて車で自宅に引き返すと、1時間もしないうちに電話をかけてきた。

「いちど、ネパールに行ってみませんか?」

コーヒー観が一変した!

両親とぼくは、その月のうちに急きょネパールへと向かうことになった。そして、はじめて目にしたコーヒー農園で、ぼくのコーヒー観は一変させられることになる。

農園は、イメージしていた「農園の風景」とはまったく違っていた。ロープを伝って下りるような急峻な山肌に、雑草にまぎれてぽつん、ぽつんと背の低いコーヒーの木があった。派手な色合いの巻きスカートをはいた女性たちが苗木の世話をしていた。収穫時には60kgにもなるかごを背負い、30キロの道のりを徒歩で街まで運ぶという。

ネパールのコーヒー豆に直接触れる。

ぼくは、頂いたなまの豆を、ホテルのキッチンを借りて毎日焙煎した。より美味しく、より大切に。

ぼくの中で確実に何かが変わっているのを感じた。それまでは、自分という形をコーヒー豆から削り出すのに必死だった。上手く焙煎できないとき、いらだって庭にコーヒーをぶちまけたりしていた自分を恥ずかしく思った。

そして、「交じり合う一点」と「7.0」のことを考えた。誰が飲んでも美味しいと思えるコーヒーを焼かなくてはいけない。その上で、ほんの少しだけでも「ぼく」という存在を感じてもらえればいい。

いや、ちがうな。ほんの少しだけ、何分でも何秒でもいい、ホッとしてもらうだけで良いじゃないか。そりゃ、美味しいって言われる方がいい。でもきっと、コーヒーを飲むとき、しかめっ面をしている人はいないだろう。ぼくはその、ひとりひとりの時間を借りているのだ。1500キロ離れた日本にこの豆が届き、ぼくという川を通って、コーヒーは磨かれて、黒く丸みを帯びて、一滴の液体になる。

ぼくは、コーヒーがほんとうに美味しく飲まれるために、少しだけ力を貸しているに過ぎなかった。

翌月、ホライズンコーヒーで出したコーヒーには、ぼくがネパールで感じた気持ちを込めた。「個が個であるエネルギーと、それを認められる安堵感」をテーマにした焙煎は、感情を抑えるのがまだ難しかったためかもしれない、少しあらあらしい、大きな波のうねりを残した焼き方になってしまった気がする。

「ホライズンラボ」という名前は、家族で訪れたタイの洋上で見た、水平線の美しさからインスピレーションを受けて付けた。今になってようやく、その名前の意味がわかったような気がしている。コーヒーの酸味と苦み、鋭さと丸さ、甘みと深み。それらが共存して凪いだ海を、ぼくは目指していたのだ。

(Section1おわり)

続きは特設ページで無料で読めます!

『コーヒーはぼくの杖 〜 発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』特設ページでは、「from 岩野久美子(母)アスペルガーの予兆と診断」「from 岩野開人(父) “ふつう” ではない生き方」も無料で公開中です。ぜひご覧ください!

<参考リンク>
ホライズンコーヒー